絵の上達のための模写、では文章の場合は? という特に意味の無いぐだぐだしたお話。

 下記は昔書き連ねた雑感です。話題は、ツイッターで見かけた「絵の上達には模写、それでは文字の場合は?」というものです。自分はどう考えるかなと言う思考整理メモ。古いので色々おかしいとは思いますが、せっかくなのでそのまま再掲させていただきます。

 * * *

 過去のツイートを整理していたら自分で面白いなと思うものがあったので、こちらにてまとめ直そうと思います。自分用メモ兼思考整理。文章についてのなんやかんやです。
 話のきっかけは多分、「絵の上達には模写がよいとされるが、文章の場合絵でいう模写のような行為はあるのか、模写に意味があるのか」というようなツイートがきっかけだったように思います。面白いな、と思い、呟き主には届かないのを承知で私なりの考えを述べていました。私が書き手や作り手といえるのか、技術力などといった問題点は盛大に無視しておりますので、その点はご了承ください。

 さて、まずは模写について私の考えを少し。
 絵も文も、かくという行為をするだけならに模写というものは必要ないように私は思います。かくということになれることが上達になるとは思いますが、かくだけなら真似する必要はありません。ペンを動かすということになれないと絵が描けないし、言葉を使うということになれないと文字も書けない。かく、という行為に絞ればどちらも模写は必要ないのでしょう。その点は私の思考のきっかけとなった方も同意見だったのではないかと思います。上達には模写が、とありましたしね。
 さてここで、上達のためのあれやそれやという概念を考えてみます。絵と文の対比を丁寧に考えてからの方がいいのかと少々悩みましたが、多分うまくいかない気がするので無理やり関連付けて進めます。ミスター・オー・ザッパーです。
 ええと下らないことは置いといて話を続けますね。絵を描く時も文字を書く時もルールがあります。子どもの場合(といっても私は自分のことしかわかりませんが)、このルールに疎いように思います。よって上達にはルール学習がまず第一。あと、かくことによって頭と実際のずれを認識することも大事なので、かく量が大事なのはどちらも同じように思えたりします。
 顎がとがりすぎているといけないだとか、女の子の目はぱっちりしていたほうがいいだとか。そういうルールは教われば多少修正できる気がします。同じように、文字を書くときのルールも作文やらなんやらで用います。ここでちょっと両者が違うのは、絵の描き方はあまり言語化して勉強しないこと。絵はなんとなく、顎やらなんやらの細かくわかりやすい点は置いといてもっと感性な気がするのです。
 専門的な勉強はまた別として、学校の授業でそういう細々としたこと聞いた記憶はありません。私だけかもしれませんが、一般的な美術と関係しないような学校は同じような傾向があるのではないかなと勝手に想像します。というわけでそういうことで話を進めます。
 細々としたことを教わらないからこそ、必要なのは模写や簡単な描き方の本なのかと思います。真似るのと真似るためのコツが載った本が上達に繋がりやすい印象です。とくに真似るためのコツなどは学校で教わらないからこそやり方が分からず、手にする人もいるのではないかなという勝手な想像をしたりします。文章はそういった定義が作文でされているので文章の書き方、を手にする機会は少ないのではないでしょうか。小説の書き方という本もありますが、文章の場合ルール説明が作文と言う形でされるので、今更本を手にしようとする人は少ないように思います。絵の描き方を見た人は多くても小説の書き方を読んだ人は少ないのではないでしょうか。私個人の偏見ですがそんな印象です。
 そして先に少し述べましたが、なんとなく私の中で、絵の描き方では描くためのルールを提示しているように感じます。真似るためのコツだとか、他にも人体のバランスでどういった比率が良いだとか、そういったことを説明している本が多いのではないでしょうか? 対して小説の書き方では、書き方のルールは少しだけであとは物語の作り方・話の考え方と言った概念的なものを説明しているようにも思います。絵では描きたい絵のイメージの仕方なんてないような気がするのに、ぶんは寧ろそちらが優先されている。なんだか面白いです。
 なので、この場合絵と文章では手に入れることの容易さ、または重要性、順位というものが違うのではないか、それが模写というツールに対しての違いになるのではないのか、と考えたりします。絵は内容より見目を優先されることが多いように思うのです、逆に文章は見目より内容を優先するように思うのです。
 勿論美しいだけの絵ではなく物語性や繊細さ、感性などが大事ですし、美しくなくてもその内容で目を引くものも多いです。文章も、内容がどれだけよくても体裁が稚拙だと好まれないことも多いです。ただ、それでも絵は見た印象に関わるような絵柄などの感想が多く、文章は文体よりも内容の感想が多い——特に「言葉は酷いけど中身の勢いが凄い」という感想とかもある一定量あるような気がします。
 話がとっちらかっていますが、見た目の印象が話題となったので見目の美しさが優先されるのならどうすればいいのかという点を少し。といっても、まず必要なのは手がそれになれることなのではないでしょうか。先ほどから言ってることがあまり変わりませんね。ええと、そうして絵をよしとするルールが多いのだったら、それを踏襲するために参考となる絵を模写するのがよいようにも思います。重要とされるものは、やはり学習するに色々と例が多いように思います。なので絵で見目が重要とすると、見目のパターンはやはり多く、全てを習得することは困難なのではないでしょうか。
 そうして全てを習得することができないなら、やはり自分が好ましいと思う絵柄をまず先に習得することが近道に思います。そう考えると、絵を描く人の多くが模写を必要とするのは自然なことにも思います。模写をしない人もいるでしょうが、多分それが一番の近道にも思うのです。さてやっとはじめの問題点に戻ります。ならば文章はどうなのか
 文章を内容から入ると考えるのなら、まず、内容を空想することの方が優先されるように思います。そうして自分の認識のずれを知るために妄想を文章化する。文章と言うのは綺麗な文章を作ることよりも、まず「物語を完成させること」が重要にも思うのです。文章の上手い下手より、話を書くことが重要。絵でも完成は大事ですが、文章は絵より完成させることが重要な気がします。絵は下書きでもまた違った趣があるでしょうが、そもそも文章は下書きってなにって状態になる気もするので……。
 ちょっと話が微妙にずれますが、文章の体裁、美しさが求められるとしたら短歌や俳句のような短期決戦にも思います。が、あのあたりは美しさと発想となので、絵と文章の間のようなイメージです。これは単なる私の妄想なので(短歌や俳句に詳しくない)ちょっと端に呟いておいとくだけにしますね(訳:戯言として流してください)
 ここで話を作るという時の私の中のイメージをほんの少し。①こういう世界があったらいい・またはこういうことがあったらこうするといった空想型②この物語の続きがどうなるか気になるといった続編型③この世界に自分がいたらの参入型(空想型の仲間、二次より) この三つくらいが物語のきっかけかなと思っています。
 さてこれらのことですが、基本幼児期からみなさん経験あるんじゃないですかね。物語じゃなくてもいいんです。特に①なんか物語の必要ないですよね。妖精さんがいたら、魔法が使えたら、ヒーローになれれたら。この辺に漫画やら絵本やらテレビやらの内容の主人公に自分がなれたらが③ですかね。妄想。このことを言語化したい、というのがきっかけでしょうか。友達との会話で繰り広げた夢物語。それを文章として伝えたい、具体性を持たせたいとか。このあたりの話を作る、文章にふれるきっかけって完結する可能性が低いように思うんですよね。私だけかもしれませんがこの話基本私基準なのでそこはご勘弁。
 完結しない妄想を完結する形に持っていく、文章にしていくうえで妄想の隙間を埋めていく。それが文章を書くことの一歩に思います。この場合、結局文章の体裁より中身の考え方やキャラクターの作り方が重要視されるのは、妄想を文字に起こすこと自体はさほど難しくないからだと思うんです。
 文章の場合、とにかく書いて、おわらせることが物凄く労力となるように思います。絵も完成させることは大変かもしれませんが、恐らく絵より文章の方が時間がかかると思うんです。作品の規模にもよりますけれどとりあえずイメージでは。なのでどうしても、妄想だとかなんだとか、筆が止まった時の行動の方が重要とされる。多分、描くと書くの違いってそこにもあると思うんです。
 描いている最中の美しい線が大切な絵、書けなくなった時想像力にエネルギーが必要となる文章。いや、確かに描くって行為には想像力や描写の為の知識が必要でもあります。でも多分、筆が止まる時の理由って、ちょっと文字と絵って違うと思うんですよね。なんか怒られそうだなと思いつつ私個人の感想です。
 なので多分、文章の場合、模写よりもまず先に書きたいものを空想することのほうが大切なのではないでしょうか。模写の代わりに、映画を見て、本を読んで、漫画を読んで、周りの人を見て。その人たちの物語を空想する。そして自分の書きたい世界を確立する。その上で、とにかく書く。書き上げる。
 描くが重要なのは絵も同じですが、物語を空想して完結させる・または書きたいシーンを書き上げる。そのことによって得られるものが文章は特に多いと思うのです。おそらく、文章は文章自体の模写よりも空想の為の行動が重要視されるのではないかな、と思ったりします。先に述べた見目と内容の割合の違いがそこに通じるかなとか。
 ただ、文章を模写するという行為がないわけではありません。実際模写をすると、自分が好きな言葉や構成、文章について気付くことが多いとおっしゃる方もおりますし、テレビCMなどで言えば”天声人語”などを写すことで文章力が得られるという話もありますね。私も過去学校の先生から聞きました天声人語。文章力向上させたいなら毎日読んで模写しろと。やったことありませんええ。小論文的な文章力なのでまた違うかもですが、でも実際天声人語ではなく小説とかでやってらっしゃるって話があったので、なんらかの効果はあるようにも思います。上を見たらきりがない。
 しかし今回、何度も述べていますが私の経験則なのでそれは置いておきます。私はそういった模写をせずに文章を扱ってきましたし、やらなくてもなんとかなるという感覚が強いです(私の文章力がだから低い、と言われたらそれまでですが)。絵は模写する人が大多数と思いますが、文章は模写が少ないように思います。
 絵のように文章が模写されることがあまりないのは、文章のルールやらなんやら、といった問題なのではないかと思います。ある程度理屈でルールが知れるので、模写してまで身に着けようとする人が少ない。それと、絵はどうしても私の中で動的エネルギーが多く思うのです。手を動かさないとどうしようもない。文章も手を動かして作るものですが、実際のところ動的エネルギーは少ないように思います。なので動より思考重視なのかな、と。
 例えばですが、絵の「ペンに慣れるためひたすら線を引く」という作業にあたる行為を文章は持ち得ないように思うのです。道具に慣れる必要はさほどない。慣れるという行為にあたるのだったら、「言葉に慣れる」ことなので、やはり文章はさほど必要ないように思うのです。
 勉強をするときに、記憶するためにひたすら書く作業が必要な人もいれば、読むだけでなんとかなる人もいる。この場合前者の方が多いような気もしますが、しかしこれ、好きなことなら結構暗記も書くの必要ない気がするんですよね……ちょっと話がずれてますかねすみません。
 単純に言えば空想妄想なので模写よりそっちのが重要、というのが私のイメージです。だからこの無駄話のきっかけであるツイートに対してだったら、やっぱりまず妄想からはじめるもので、作品を写す人はいるけれど絶対性はなく、ただ、好きなものに集中すること、が大切なのかなと思います。
 多分、考え方妄想の仕方なにが格好いいかどうしたいか、を考える際に、映画を見る人、本を読む人、周りを見る人、自分を見つめる人などがいて、かつ、それに対して分析し、なにが面白いか考え文章に発展させる、ことの方が文章を書く人は重要視するんじゃないかと思います。書き方より思考の仕方が重要な気が。
 勿論好きな言葉や言い回し、文章の書き方などがあればそちらを記憶したりメモしたりすると思います。ただ、模写、という形よりも、ちょっとした参考程度にとどめて自分で書きたいものを書き上げる方が自然かなと。自分の場合、面白そうと思ったら模写するのではなく実際それを使えそうな話を書きます。書きました。
 本当に自分の考えとして偏ってて申し訳ないですが、私の場合だと、好きな作家の文章を読む、は勿論のこと、こういった環境で好きな書き手の情報が簡単に手に入る現在では、「好きな書き手の好むものを知りたい」方が強いです。何を見て何を思っているか。それは多分、書き手への好意だけでない理由です
 書き手への好意だけでないというのは、「好きな人の好きなものを知りたい」もありつつ、それだけでなく「これだけ素敵な世界を書ける人はどういったものを好んでいるのだろう」という感情からです。絵を描く人が作業工程を見たがるのと似たような心地で、文章を書く人の物語のきっかけを探すのです。
 ……なんかひとりで話すと迷走しますね。軌道修正が苦手です、すみません。
 結論としては、文章は模写より、多分見方や世界の捉え方を追い求めるのだと、思います。文章を読んで楽しければ頭の中でその文章ににた言葉をつらつら妄想しますし、模写をするメリットを聞いたコトもありすごいなあと思いましたが、私にはそれよりそちらの方が向いていたようですね。空想、妄想。
 なので文章は模写よりとにかく書き上げることが重要で、空想やら好きなものを増やすことが結果的に文章を作ることになっていくのではないかな、と思います。上達したいよりとにかく書きたい妄想吐き出したい、だったので上達したい、から入る人がどうかはわかりません。小学生から順調に妄想厨二病患って(現在も、と言われたら否定しませんが)きた自分がふとかきだしたころを振り返ると、絵はうまくなりたいと思った時に模写は頑張ったものの、文字は上手くなりたいよりとにかく書き上げたいのが重要な気持ちで、うまくなりたいと思っても結局書き上げたいが一番でした。
 今でもうまくなりたいと思っても結局模写していませんし、やるとすると自分の中でかいたことのないかきたかたを試してみる、くらいです。なので物凄くぶっちゃけると私の言葉って結局向上心ないやつの戯言じゃね?となりますが……でも、書き上げたい方が大きい書き手の人は多いのでは、と妄想してます。
 もしうまくなりたいならきっと文章の模写や読書、映画などを分析すること(理論を得る事、感性を得る事)、観察力の向上、現在好まれる傾向の推測などがよいのかもしれません。でも、とくにうまくなりたいと思わず(思ったけれども具体的な努力せずに)にガリガリ書き続けても向上はする、と思います。ソースは私、なので私の技術力云々考えると疑問点がありますが、まあある程度の文章ということで。書けてるといいなあ……。
 閑話休題。とにかく嫌わずに書き続けることが重要じゃないかなあと考えます。現実のこととか模写しきれない語彙が足りない、としても、意外と妄想で結構それっぽく補えると思うんですよね(やはりソースは私)。文章の始まりは妄想だと思います。
 いい加減ぐだぐだしすぎたので黙りますが、こういう話が好きなのでおもしろそうだなって思ったらまたぐだるかもです。つついてくだされば適当に話し始めたりもします。以上、ぐだぐだどうでもいい雑談でした。

(初出 2013.08.25 改変 2013.10.14 掲載 2018.05.13 再掲 2023.01.12)

タイトルとURLをコピーしました