と或る物語の話と、私の話。

(2019年に別所で投稿したものを再掲したものとなっています。)

 先日、と或る物語を読んだ。率直に言って酷くダメージを受けた物で、それを私はあまり多く語るのは控えていた。
 作品としては秀逸。その点で批難するつもりはなく、ただnot for meだっただけだ。その作品が賞を得た、と知って、ならばそれは趣味の一作品ではなく触れても良いだろうか、とも思い、理由をつらつらと語ろうと思う。

 好意的な感想、とは言えない。その為作品名は出さない(が、この条件ですぐにわかるだろうとは思う。テーマが非常に珍しい物だ)。
 私が読んだその作品は、Aセクシャルを題材にしたものだった。

 Aセクシャル。この単語を私が知ったのは高校生の時。十年以上前のことだ。そしてわたしはこの単語に衝撃を受けた。
 Aセクシャルは非常に難しい定義思えた。いくつか調べたが、やはり繊細な物だった。恋情を持たず、性欲を持たない。この二つを所持するのがAセクシャルであり、性欲を持たないのがノンセクシャルである。細かい定義はわからないながらも、そのような認識を私は持った。
 私はAセクシャルではない。だが、非常にその定義は、それでいいのだというような優しい許容でもあった。

 端的に言ってしまえば、当時も、そして現在も私は恋慕の情がわからない人間である。かといって私はAセクシャルであるという自認はしていない。性欲の有無を問われれば、生きている人間に情欲は持たないものの創作物であるキャラクタにはそのような目で見ることが出来たからだ。私はAセクシャルのような、美しい徹底したものではない。しかしリアルの人間に情欲も恋慕も持たないことを許容する定義は、ひとつの優しさでもあった。

 恋をしたことがないからだ、と人は言う。セクシャリティは基本的に生まれ持ったものだとも私は認識していた。私自身が何故恋慕を好まないかと言えば、そもそも自身のらせん構造を愛せず、そこに魅力を感じなかったからだという後天性も理解していた。故にその定義に憧れながら、私は私には理解できないものとして、その単語を胸に刻んだのだ。自身のような後天性ではないそれは、生来の仕方ない物として羨ましいもので、しかし同時にきっと非常に苦しいのだろうという想像のつかないほどの切実な苦悩を遠くに思うものでもあった。

 私はそういう衝撃を、当時物語にした。オリジナル小説としては初めて短編と言う形でまとめて、それが私の根っこでもあった。そこで描いたキャラクタを、私はAセクシャルと呼称していない。どこか自分に近く、しかし自身と違い生来のセクシャリティとして恋ができない少女を描いた。私はその、恋ができない少女の、しかしそれでも友愛を貴び、そしてそれを他人が理解しないだろう現在の社会を嘆き、そういう多様性が受け止められる社会となればきっと幸いだろう、と、理解できない美しさを、踏みつぶしたくない歪なガラス細工として描いたのだ。私にとって、そのセクシャリティはそれくらいに非常にデリケートで、かつ、どうしようもないものだった。

 だから私は、先日Aセクシャルとして描かれた物語を見た時、ひどく怖くなった。私はAセクシャルではない。にもかかわらず、他人にとってAセクシャルというものがあのような形に映ることが恐怖だった。

 恋慕の情を持たない、理解できない人間。私はそれを、許されたかった。しかしその物語で、私はAセクシャルとして定義された主人公を恐ろしく思った。まるで酷い恋慕のような執着。それなのに、性欲がないという点で恋慕でないという否定。性欲がなくとも恋慕が成り立つのはノンセクシャルで定義されており、その主人公はAセクシャルと言うよりもノンセクシャルに思えた。しかし主人公はAセクシャルといい、恋慕が理解できないといい、そして自身に恋情を持つ相手に応えられないのに、執着する。
 応えられないなら、いいのだ。それは仕方ない。なのにもかかわらず、恋情を持つ相手が恋情を自身に向けなくなると思うとそれで気が狂いそうになる執着は、私には理解が出来なかった。それが恋でなければなんなのだろうか。恋でなければ、友愛でもいい。しかしそれを「Aセクシャル」として描かれることが非常に怖かった。

 もうひとり、恋ができない登場人物もいる。それは寂しいからと恋が理解できないままいろんな人と付き合う人間だった。その作品で主人公は「恋は理解できないが恋をしてきている人間が恋情を持たなくなるのを嫌がるAセクシャル」、もう一人は「恋は理解できないが一人が嫌なので相手の恋情に応えたがるが無理解ゆえに傷つあうAセクシャル」として描かれて見えてしまった。これがマジョリティならそういうひともいる、で済む。しかし、Aセクシャルが話題になり出したにしても、まだほかのセクシャリティよりも知らない人が多いジャンルであるにもかかわらず、Aセクシャルとして大々的に宣伝される形がこの結果、というのは非常に怖く、傷つき、息が苦しくなった。

 恋慕を知らなくても別に薄情な訳ではない。愛することは出来る。友愛で触れ合うことだって許されるはずだ。そういう形で理解し合えればと思ってきたAセクシャルと言う概念が、恋慕を好むマジョリティの喜ぶ恋愛ドラマであり、セクシャリティのいびつさによる悲劇ドラマとして消費されてしまった。そう感じてしまったのが、正直な感想だった。

 物語として、私はAセクシャルという項目が無ければ楽しんだと思う。それは単純にラベルによる評価の違いであり、いびつな感性だと思う。

 それでもわたしは、当事者でもないのに恐ろしくなった。むしろ当事者でないからこそかもしれない、と思い、そう感じる自分自身すら当事者には不愉快ではないだろうか、もしかするとああいう形が当事者には喜ばしいのだろうか、ぐるぐると考える。私はAセクシャルではない。だから、わからない。わからないから自身の書いた創作すら恐ろしくなり、吐き気がして、えぐられる。ぐらぐら、ぐらぐらと。ただただ刃で突き立てられ、そしてそれが多くの人にとって当たり前になることに怯えている。

 あんな恋慕のような執着がAセクシャルのものだと、理解できないから傷つけるのだと、そういわれるような気がするのは明らかに思い込みの強い見方だ。好まれない。

 それでも見かける度、恐怖する。人にとってどう映るのか怖い。

 私はそれが理解できない美しさだと、思っていた。だからこれは、ただ単純にnot for me。それでおしまいになるべきもので、私は飲み込まなければならない。
 秀逸な作品、という理解は、しかし私の感情を掻き消しはしないのだ。

 ただただひたすら、怯えている。

(初出:2019/03/16 最新:2023/01/19)

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