「読みやすい」を言及した話について何故ひっかかったのか。

(2018年に別所で投稿したものを再掲したものとなっています。)

 先日Twitterで「小説を書いて読んで貰って感想を求めたところ「読みやすい文章だった」と褒められてモヤモヤする、みたいなのは字書き界隈あるあるだと思う」という旨の呟きを拝見した。
 この話題は中々に各自思うところがあるらしく言及する人をよく見かけ、私自身も思うところがあった側だった。
 ぽつぽつとTwitterで話題に触れもしたが、そもそもなぜひっかかったのかという点を整理したくこちらで筆を執ってみることとする。

 この話題が中々広まった理由はおそらく「主語の大きさ」と「状況の多様性」だと思われる。まあ、基本的に個人の感覚に対して大きな主語を用いると面倒が起きやすいのだが——これは総括のほうがわかりやすいだろうから、状況の多様性を考えながら触れていこうと思う。

 この件について正直に言えば、私はなんとなくひっかかることが多かった。肯定と言うよりも否定の意味で、だ。理由としては「感想を求めた」とある人間が、求めた結果「読みやすかった」一言で満足せず、それどころか「モヤモヤする」と言ったことがあげられる。
 この「モヤモヤする」についてはとても曖昧な言葉だと思う。なぜかというと「相手の言葉に不愉快を感じた」のか、「自分自身の力量のなさにもどかしさを感じたのか」など、モヤモヤが誰に、どうして、という点の説明がないからだ。ちなみに私は前者のように感じたため、「感想は個人の自由」であり、かつ「感想を求めた側が文句を言うのもおかしいだろう」という印象でこのツイートについてよい感情を持たなかった。そもそも読んで貰うって労力そこでとってもらっている発言では、など色々思うところが多かった発言でもある。

 前提条件として、「感想を必ず喜ばなければいけないわけではない」という点と「言う側も言われる側も自由だが、それらがポジティブという保証されない」という点がある。これらを元にすると「もやっとしてもいいじゃないか」となるかもしれないが——ツイートの中にあった「感想を求めた」が大きな要因だ(読んで貰ってが読むよう促したかどうか不確かなのでこの点は置いておく)。

 そもそも感想とは読み手側が持った感情であり、それを表出するかしないかも読み手の判断によることが多い。読書とはプラスとマイナスどちらにも成り得、それはどちらかひとつだけによるものでもなかったりする。「読んで面白かった」なら聞けばそのように答えられるだろうが、「読んでも特にどうとも思わなかった」場合は聞かれたときどう答えればいいか。絶対誰もがポジティブに思う作品などどこにもなく、「自発的な感想」でない場合は、どういう結果が飛び出たとしてもそれは藪をつついた側の問題ではないか、と考えてしまう。
 「読みやすい」は当然であり、それだけだともやっとする。そういうのならいっそもっと藪をつつけばいい。なにか好きなキャラクターがいたか、とか、この部分はどう思ったか、とか。それが聞けないのなら、読んでもらっただけ僥倖だろう。この件に関しては「求めた」のに出てきた結果に対して不満を言って見えたので私はどうにも、それこそもやもやとした気持ちをもったのだ。
 お互いに講評をするだとか、金銭でもって評価を尋ねたケースならもやっとしてもわかる。その場合は不満を相手に伝えるべきだとも思うが、そうでない場合読んでくれた人に対してなんの対価を書き手は渡せるのだろうか、という点で、対価がない状態でその感情は勝手ではないか、というのが私の不満だった。

 さてこの授受する関係についてもう少し触れてみる。たとえば、ではどういう関係なら感想を求めたときに「読みやすい」だけだと不満をもてるのか、と言う点だ。
 先ほど少し触れたが、これは「金銭による感想の依頼」「講評」のケースだ。

 前者は感想として質が求められるものである。金銭という対価があるのだから一定の保証があるべきと言う考え方だ。この場合「読みやすい」について、「なぜ読みやすいのか」「どのような箇所が読みやすく、またもし読みやすさが全体で違いがあるとしたらなぜか」「他に良い点がなかったか」を探しかみ砕く必要があるからだ。
 これらは基本、金銭のやりとりのない読者がわざわざするものでもないだろう、が個人的な感覚である。「自分の感じた理由はなぜか」を説明するのは慣れがいるものであり、できる人間にとっては当たり前かも知れないがだいぶ労力を使う。ただの読者がそこまで労力を費やす責任はどこにもない。だからこそ金銭による依頼という形では保証された方がよいのではないか、と個人的に考えるスキルだ。

 講評についてはその言葉のままである。理由をあげ説明することが目的となっており、「読みやすい」だけでは理由の説明になっていない。もしポジティブな箇所が他になかったとしても、この場合ではなぜ読みやすいのか伝えること、技術が求められる中でその一言はあまりに短慮だからだ。

 また、先に挙げなかったがいわゆる「感想のお礼に感想を言う文化」というものも場所によってはあるようだ。その場合、相互にその関係を言語化・理解しているとしたら相手への返礼時に一言では問題が生じるかも知れない。ただこのケースについては私には身近ではない(私個人としては、感想は感じたときにするもので義理で行うことができない)為、あくまで可能性の一例にとどめる。

 さて上記の理由でもって納得できる・できないがわかれるが、他にも今回話題になった理由はいくつかあるだろう。たとえば「読みやすい」について「求めたからと考えなかった」場合、「読みやすいと言ってくれた時点で読んでくれたのがわかる、ポジティブな状況である」と判断するケース、「感想で読みやすいと言って貰えて嬉しかった(このケースは無意識に読みやすいにプラスの感想があったケースが多いと思われる)」体験談ケース、「そもそも感想を言ってくれる人がいないのにどうしてハードル挙げるんだ贅沢じゃないか」と感じるケース、「一言でも時間をかけてもらって反応があるって十分では(長編で読み切ること自体が多大にハードルが高くなるので、長編は特にこう感じやすい)」ケース等々。

 ツイート主の環境がどのような状況にあったかによって、現在挙げただけでも納得できる・できないが個人的に複数ある。そしてツイートの解釈も多岐にわたってしまうだろう。さらに言うと、たとえツイートの解釈ができたとしてもそもそも「感想を求める」ケースを体験したことがある文字書き自体全体から見て「よくあるケース」とはいえないのではないだろうか? というのが個人的な感想だ。
 そもそも「読んでもらう」こと自体頼んで行いづらい(宣伝と個人へのお願いは別だろう)と考える人が多いだろうに、そこからさらに「求めた」という呟きを「文字書きあるある」とされるとどうにも難しい。特に感想以前、読了報告すら欲しがるような文字書きも少なくなく、「そこでハードル挙げてどうするの」とか、「私は嬉しい」とか、逆に「わかる」というケースで一時期にぎわったのだろう。
 感想についてはそもそもよく議題にあがりやすいもので、まあ人がそれだけ心を砕いているのだと思う。正直に言ってしまえば「人それぞれ」で、「合う合わないはあるので絶対的に喜ばれる言葉などない」が個人的な考え方だ。喜ぶのも喜ばないのも自由、言うのも言わないのも自由。だからこそ、その自由に一歩踏み込んで「求めた」人間が、自分の望みと違ったからといって「もやっとした」と相手に思うのはなんとなくどうかなあという個人的な感想があって、この話題に眉を潜めたのだと思う。
 ただ、最初のときにいった「自分へのもやもや」だとしたら、個人的には頑張るしかないのだろうなとも思うのだ。こちらの解釈の場合は自分にとってよく馴染み、感想を聞いたところ「読みやすい」一言だけだった場合、「毒にも薬にもならなかったが読むことに困難ではなかった」というプラスを感じながら、それ以上になり得ないことを嘆くかも知れない。そもそも自主的に読みやすいと言う人はその読みやすいにプラスを言うケースが多く、ではそれがない、求めたときの読みやすいに対して感じ方が違うのは納得できるのだ。そういう点では、だが。
 ただ物語とは人によるものだ。合わないものを読ませてしまい感想まで求めたことを反省すれど、その人にひっかからなかったからといって物語が面白くないとは言い切れない。読む人百人のうちたった一人でも刺されば、と考えるならそれでいいし、そうでなくても数打たねば実質わからないものである。反省と対策は自分で考え自分の作風技術で向き合うもの、で、その「もやっとした」時にどうするかが問題なのだとも思っている。

 ぐだぐだ言ったが基本的に「どう感じるかは人それぞれ」につきる。それは感想を言う側も、言われる側も、だ。読者は必ず感想を言わねばならないものではない。作者は必ず受け止めなければならないものではない。「言ったのに」ほど不毛な者はないと思う。
 感想だけでない、批評やアドバイスも同じくだ。基本的に趣味でやっている人間だとしたら、もらう場合どう感じても自由だ。与える側が文句を言うものではなく、絶対でもない。自分からそれらを求めた場合、どう感じても自由だが不満をぶつけるのとはまた別だろう。アマチュアで批評やアドバイスなどを求めるケースがあるが、絶対聞かねばならないわけでもなく玉石混淆、そこから選び自分で自分を守るくらいの図太さがないとやっていけないだろうとも思っている。その場合欲したのだから自分で自分を守るべきだし、飛び込み相手に文句を言うならさっと引くのが一番だろう。

 感想は喜ばれるとは限らない。それでも伝えるときにはプラスの感情なので、個人的には「気軽に伝えられるかどうか」を判断しやすい意味でこういう話題は結構好きだが、しかしやはり主語の大きさは「読みやすいという言葉をよく使っていた感想を言う側」が引っ込むきっかけになるのでちょっと勘弁してほしい、というなんとも考えたところで不毛な話題でもあった。
 消化しきれない気持ちはそのままあるが、とりあえずこの話題はここで区切ってみるとする。
 この話題に便乗して「こういえば大丈夫」というツイートもあったが、基本絶対大丈夫なことはないのだ、と何度も(自戒もこめて)ひとりごちるしかできない。

 それでももらった感想で幸せになった経験がある人間としては、感想を伝えることをやめたくはない、と思うけれどね。そんな雑感でした。

(2018/05/17)

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